明治の塗師蔵にある文化財的資料「漆技手板」の事を書きました。
引き続き、漆器産地としての輪島が明治から大正にかけてどうあったかと云う事を紹介しようと思います。

前回の画像3枚は、一枚は加賀藩の「百工比照」の「漆技手板」もう一枚は明治9年に開催のウィーン万博で紹介されたもの、松本石太郎漆工房所有の「漆技手板」パネル。

それらは、誰に向き合って作られたかはそれぞれ違うが、漆塗技術や漆装飾技術の多様性を確認しPRするものです。輪島の場合それは、お客様に単に目の前の商品を紹介するだけではなく、漆の表現力や応用性を紹介するものであったはずです。

日本全体を考えても、工芸は江戸から明治への時代の変化で、大名などの重要な庇護者を失い、ある面存続の危機を向かえるのです。そんな中でも、輪島においては他の漆産地に見られない特徴ある行動が覗えます。その証の一つは次の写真の「図案集」です

大正7年から9年にかけて。毎月2葉づつ輪島漆器同業組合が組合員に向けて発行した「図案集」です。
左は徳川家の至宝「初音の道具」の図、真ん中はモダンなデザイン、それぞれ石川県内務部勧業課に働きかけて発行させた物を、組合員啓蒙の為に発行しています。内容はかなり質の高いものとなっています。
この文章を書いている蒔絵師も祖父、父からそれらを綴った物を受け継ぎました。(その原本は訳あって、現在パリの高級宝飾店のオーナーの手元に)
これが発行されるにあたり色々なストーリーがあります。それらは次の機会に。

輪島における「漆技手板」はお客様に輪島の技を紹介し見てもらう事で、今までは使う漆器その堅牢さをアッピールしていましたが、更に装飾性のある付加価値の高い漆器の受注を目指していて、産地一体となり塗りだけではなく蒔絵など装飾技術や意匠の研究を積極的に取組んでいたのです。この事は私自身も江戸時代からの様子としても聞き伝えられています。

その様な産地一体となり取組めた地域力は、輪島の地にどうして育ったかと云う事も、次の機会に書きましょう。

この様に書いている事で、意外と書き著せていない、輪島の産地の現場から見た歴史や特徴、そんな事を表に出そうと考えています。
それによって、技術を持つ地がどうあったら良いのか、今後どう人と向き合うべきか、ものづくりの私たち自身が考えることや、現代ならではの発展的なモチベーションが生まれるきっかけのひとかけらでも どこかに生まれたら幸いに思います。

それらは、けっして輪島の地だけの事ではなく、また一産地や伝統工芸の事に限らず、日本のものづくり全般に繋がる事なのではないだろうか、そんな思いで書いています。